被災地石巻より

~震災から1年~

かつては、あの悪夢から逃れひたすら前を向こうとしていたためなのか、随分と前の出来事のように思えた大震災も、もうすぐ一年を迎えようとしている今ではついこの前のことように感じられるようになったのは私だけでしょうか。
 
ここ石巻市でも、「平成23年3月11日 14時46分」国内観測史上最大となるマグニチュード9.0、震度6強の激しい揺れとその後に襲来した容赦のない巨大津波で多くの尊い人命が呑み込まれてしまいました。
津波の高さは、牡鹿地区の観測地点で最大8.6m以上を観測、死者2.976名、行方不明者669名(平成23年10月末)にのぼる未曾有の大災害となり本市に深い傷跡と悲しみの記憶を残すこととなりました。
 
平野部の約30%、中心市街地を含む沿岸域の約73Km2という浸水域面積も他の市区町村よりも突出して広くなっています。
 
被害が拡大してしまった原因は大きく、
1)生活拠点が川沿いや沿岸部に集まっていた。
2)地震で地盤が80cm程沈下してしまったところに津波が押し寄せてきた。
3)北上川と旧北上川を津波が河口から15kmも遡上したこと、などがあげられます。
以下、当院の被災状況から再開に向けての経緯を中心として述べさせていただきます。

この生地に産婦人科有床診療所を開業して24年、3月11日は奇しくも当院の開業記念日でした。
ささやかながら赤飯を炊いて皆で労い、その後仕事に就いて間もない時でした。あの途方もない大きな長い地震が来ました。すぐ2階病室に駆け上がりましたが、赤ちゃんをしっかりと抱きながら不安に震えているお母さん方を目にすれば一刻も早く家族の元に帰って頂くことが最良と判断し、職員も当直者2名を残し直ぐに帰宅させました。それから10数分後に津波警報が鳴りましたが後で全員無事に辿り着いたことを知り安堵しました。
 
まさか海から2キロ以上も離れているここまではと考えつつ隣接している自宅からありったけの食料品と石油ストーブ、ガスコンロも運びだし、老いた母も2階病室まで連れて行ったものの、妻と娘、孫達が買い物に行ったまままだ帰宅せず大いに気を揉んでいました。やっと帰ってきたその直後にあのどす黒い津波が押し寄せてきました。まさに間一髪でした。
 
病室から見ると(写真①、②)不気味に水嵩を増してきており、その勢いから全員に3階屋上の倉庫部屋に身を寄せてもらうことにしました。退院出来なかったお母さん方と近所から避難してきた方を含め17人で雪交じりの寒い夜、余震に怯えながらまんじりともしないで一晩を過ごすことになりました。

結局、海からだけではなく反対の北上川支流からも津波は押し寄せ、1.8メートルの高さに到達しました。低地のため水が引くまで3日間もかかりましたが、まるで暴徒がやってきて分厚く泥を撒き散らしながら尽く荒らし回って逃げ去って行った、そんな有様でした。
 
本当に被害は甚大でした。1階のX線装置などの全ての医療機械のほかに、家具、厨房の調理器具、業務用冷蔵庫、食洗機、職員休憩室の床、壁、家具、便器5台、PC3台、TV3台、水没したコンセント、電気コード、エアコン5機、電気温水器3台、エレベーター、浄化槽の制御モーター、水道の給水ポンプ、隣接しているマタニティハウスの床、壁、家具類、電気製品など、アップライトピアノ(処分)、グランドピアノ(10回以上修理、調律して再生できました)、自宅は基礎が傾き、窓枠が大きく歪み、解体を余儀なくされました。大量の医学書、文献、資料、楽譜の流失も痛手でした。(水没したレセコンは4日目に業者が持ち帰り、洗い流して何とかデーターはリカバリーできました。塩水に浸ってはいましたが、1週間以内であれば戻せる可能性は高いとのことです。今回の震災を機にネットを活用したバックアップシステムの構築を業者は急いでいますので、ご確認されてはいかがでしょうか。)

玄関の厚いガラスも割れている
外来廊下を覆った分厚い泥
多くのカルテも流失しレセコンも水没
小待合室のソファ、本棚もひっくり返り
多くの絵本も流された
3台のエコーも廃棄へ
検診、内診台4台も処分
泥は大分かき出している
購入したばかりのiMacも廃棄に
自宅居間も食器棚、洋服箪笥も倒れ
ソファもひっくり返り、
足の踏み場もなく部屋も歪んでいる

1階の外来部分はやっと改装したばかりでしたし、自宅も全壊の判定でとても住める状態ではなく、はたして、これから復旧して再開するというのは無理ではないだろうか、という半ば諦めの気持ちを抱きながらただただ虚無感に襲われるばかりでした。
 
ところが石巻市内の分娩取扱い診療所4か所のうち2か所が廃院を決め、1か所は再開までかなりの時間がかかるという情報が飛び込んできました。当地区の分娩数は月150件ほどで、うち石巻赤十字病院で50件、100件を4か所の診療所でこなしていたことも踏まえれば、妊婦さん方の不安、動揺と、そして分娩が1か所に集中してしまった石巻赤十字病院の多忙を極めている状況を想うと立ち止まって手を拱いている暇はありませんでした。
 
幸い職員と小生の家族が全員無事であったことと、自宅が大変な状況にもかかわらず来てくれた多くの職員の心意気に後を押され立ち上がることが出来ました。
 
あの悪臭漂うヘドロとの格闘から始まりました。いったいあの信じられないほどの精神力と体力はどこから湧き上がってきたのでしょうか、朝から夜遅くまで不休で、まさに立ち向かっていました。分娩の再開には見切り発車は許されません。当初早くて5月下旬の再開を目論んでいましたが、多くの支援も頂きながら、全ての歯車がうまく噛み合い3週間後の4月1日の再開に漕ぎ付けることが出来ました。まさに驚異的で、周りからは奇跡とも称されたほどでした。
 
確かに大津波までは想定できませんでしたが、近い将来、90%以上の確率で宮城県沖地震が発生すると予測されていたことから、ある程度の資金の貯え、食料の備蓄、防災グッズの備えなどは想定内であったと言えるかもしれません。普段出入りの業者のリスト作成も有用でした。緊急時の各会社との連絡方法は、固定電話はしばらく使用できないため担当者の携帯電番号は必須でした。まさに常日頃からの「病診連携」ならぬ「会(社)診連携」も必要かもしれません。
 
そして、加えて、「体力、気力」、「使命感」、「家族」そして数々の「幸運」、が今回、スピード感を持って復興の軌道に乗せることが出来たキーワードだったようです。

左の写真は、ちょうど1か月後の4月11日に当院で生まれた赤ちゃんです。毎日新聞1面に載りました。また、震災当日の午前中に出産した妊婦さんは市内沿岸部に住んでいる方で、まさに何かの力が働いたとしか思えない程でした。一方、診ていた妊婦さん、当院で生まれた赤ちゃん、子供さん、お母さん方も何人か津波に呑み込まれてしまいました。

日が経つにつれ、え、あの人も?そういう情報が入ってきて本当に心が痛みます。堪えます。スタッフの中にも、愛息、親族を亡くしたり、家を流され、避難所そして仮設に移り住んだり、仙台への転居を余儀なくされたりとそれぞれ大変な思いを経験しているものもいます。
 
ケアする方が実はケアを必要としている、サポートさえなければならない、早く再開を果たしたもののこの点が辛いところでした。幸い、お産が増えるにつれ「お母さんと赤ちゃんから元気をもらい前向きになれるね」とのスタッフの一言で少し救われた気もしました。
 
「艱難(かんなん)、汝を玉となす」という故事のように、玉までには至れなくとも、今回実に多くのことを学ぶことが出来、そこから少しは成長できたこともあったかもしれません。
 
沢山の人々との出会いから、改めて人間の持つ思いやり、優しさ、温かみを感じ取ることが出来ました。もしかしたらこのことが、あの憎み切れないほどの罪深い震災のせめてもの償いなのでしょうか。
 
石巻市内も確実に復興復旧は進んでいるようですが、その状況はまだら模様で、いったん沿岸部に足を運んでみますと、一面更地の視界が目に飛び込んできて、かつて見慣れた風景を思い起こすとただただ愕然とするだけです。基幹の漁業の立て直し、住居移転、がれきの処理、被災者の気持ちの落ち込み、行政の立ち遅れ、等々、まだまだ課題は山積ですが、いつかはこの石巻が蘇えり、あの港町の賑わいが戻ってくることがそう遠い日ではないことを信じながら、これからも「いのち」の誕生をお手伝いできるという喜びとやりがいを感じながら皆で微力を尽くしたいと考えています。
 
この誌面をお借りしまして、医会の先生方より物心両面にわたり多くのご支援を頂きましたことを心より深く感謝を申し上げます。ありがとうございました。

防災グッズと備蓄

非常時持ち出し防災リュックは、各自宅、各施設によってそれぞれの仕様で準備をされていると思います。当院のリュックの中身は、懐中電灯、飲料水(500ml)、防寒ブランケット、乾パン(缶詰)、簡易トイレ(大、小用)、タオル、軍手袋、ヘルメット、ホイッスル、ウェットティッシュ、ポケットティッシュ2コ、で病室各ベッドサイドに置いています。
 
まだ足りないもの、余分なものもあるかもしれませんが、基本は逃げる時に背負って走れる重さにとどめることです。これだけでもずっしりとします。
 
余震が続いていましたし、車に代わり自転車を使いますし、泥で滑りやすくなりますしヘルメットは必需でした。意外と乾パンが美味しいのに感動しました。
 
今回のように停電が長引くと、乾電池を多く使います。少し不足してしまったのは反省で、備蓄を増やしています。
 
携帯ラジオも足りませんでした。各病室、各家族単位で使えるくらいに用意したいものです。
 
便器にセッティングするタイプの携帯トイレ、ゴミ袋は大量に準備していたので助かりました。トイレに置くアロマ的なものもあったほうがよいでしょう。
 
便器にセッティングするタイプの携帯トイレ、ゴミ袋は大量に準備していたので助かりました。トイレに置くアロマ的なものもあったほうがよいでしょう。
 
食料の備蓄も一応の目安とされる「3日分」は確保していましたが、多くは自宅と1階厨房に置いていたためこれからは3階に保管することぬしました。賞味有効期間がありますので時々チェックして切れる前に利用して補充していくことも必要です。
 
水が引いた4日目以降は、差し入れもあり何とか食べつなぐことが出来ました。殆どの避難所で食料の確保には大変な苦労がありましたが、当院は厨房もありましたしまだまだ恵まれていたほうです。非常時、何でも美味しいものです。立ち上がるためのエネルギー源です。

フォト集

3月12日

医院近辺
行き交う人々の表情も虚ろで、身内の安否を確かめている人も。

3月13日

病室窓から
ここはかつて地名が谷地と言われていた所で水はけがよくありません。3日目で大分引いてきましたがまだ外出はできません。12日から自衛隊がボートで救援に来ましたが新生児もいるため自院に残ることにしました。

3月13日

お判りになるでしょうか、敷地内の水表面に油が浮いています。近くのガソリンスタンドが倒壊したとの情報や遠くで火の手が上がっていましたので、この油に引火しないだろうかと恐々としていました。

3月13日

上空で何機もヘリが飛び交っています。近くの民家屋根から、病人がいるのでしょうかSOSを発していた人もいました。晴天ですが、放射冷却もあり氷点下になる日が続きました。低体温症で亡くなられた方も多いと聞いています。

4月4日

膨大な量の災害ゴミのごくごく一部。汚染とカビの発生、塩水による錆、水を吸って扉、引出の開閉の出来なくなった家具類も含めいつまでも放置できません。行政の対応が遅く待っていられません。トラック何台分もの費用も自前です。

5月3日

連休中に、ボランティアの方々が来て自院前の側溝の汚泥を除去して頂きました。市の浄化処理場も被災したため、本当に助かりました。感謝です。

5月10日

晴天に恵まれたので久しぶりに外に出てみました。車で10分ぐらいの所、被害の大きかった南浜町、門脇町、道路は通れるようになりましたが、がれきの処理はまだまだです。
「がんばろう!石巻」の立て看板が目に入ってきました。

炎上した車から引火して火事になってしまった門脇小学校。地獄のようだったと。

右奥に見える石巻市立病院(206床)、傾き、周囲が冠水しているため再建断念です。まだ築13年ですが残念です。

日和山から見た南浜町
子どもの頃、よく父に連れて来てもらい、釣りや海水浴をしたところ、旨い寿司屋があったところ、市民マラソン大会で走ったシーサイド…
あまりにも変わり果てた景色に言葉が出てきません。

中瀬公園、よく遊びに来ました。
幕末に起源があるとされている映画館「岡田劇場」も跡形もなく流されてしまいました。
ここで、映画「エクレール お菓子放浪記」が先行上映の予定でした。
機会がありましたら映し出される震災前の石巻の情景を見て下さい。
それにしても地盤沈下がひどい。

日和山神社の春祭りでした。
知り合いの神社の巫女さん、神輿を担ぐ人が何人も流されてしまい今年は止めようかと思ったが、千葉から来たボランティアの人達に担いでもらったと。
泣けてきます。
ちんどん屋の演奏、よけい物悲しく聞こえます。

3月16日

当院より目と鼻の先の所、店の前に大量の車とがれきが突っ込んでいます。
当院の前に建っているアパートで津波は多少緩衝されたようですし、車等もブロックされたようです。

6月8日

同じ店の前、車は撤去され大分片付いてきましたが再開にはまだまだかかりそう。

6月8日

駐車場のガーデンのバラが咲きました。
枝垂れ桜、梅、桃もきれいに咲き誇りました。
3日間も塩漬けになった土壌です。全滅かと思いましたが一部の花木を除いて大丈夫でした。
シンボルツリーのメタセコイアが枯れてきました。「復旧」を信じてこのまま様子を見ることにしました。

平成24年2月19日

昨年5月以来になりますが南浜町を訪れてみました。殆どの一般住宅は解体され、がれきも処分されていました。
看板の周りも一帯更地が拡がっています。

門脇小学校
やはり殆どのがれきはきれいに取り除かれていました。

南浜町の沿岸道路沿いにはまだうず高くがれき、廃車が積まれたままです。
石巻市内のがれきの量は被災地で一番多い616万㌧が発生しましたが、まだ数%しか処理が進んでいません。
復興の大きな妨げになっています。